昭和五十一年八月二十二日


御理解第五十二節
信心する者は驚いてはならぬ。これから後どのような大きな事が出来てきても少しも驚く事はならぬぞ。


驚くなと言われてもこれが驚かずにおられんと云うような事がやっぱりございますですね。信心させて頂いとっても、けれどもやはり信心の修行に依って、どんな場合であってもそれをしっかりと受けとめられる信心、そう言う場合に、いやそれで一徳受けるぞと言う楽しみ、云うならば日頃の信心の云うなら力を試すような気持ちでその事に問題に処していけれる所まではお互い信心を進めて行きたいと思うですね。突発的なやはり事が起こって来たりします。その時に慌てるような事ではいかん、日頃の信心によって、しっかりそれを受けとめられる、一つおかげを頂きたい。
昨日は宮崎の網さんから電話が掛かってきた。丁度研修をして居るときでした。此処の最近取引をして居られる高鍋信用金庫の支店長から電話が掛かって来ました。そしてあなたが参っておられる所にお話をしたから、今朝から発っとりますから夕方着く、だからどうぞよろしくと言うことであった。示現活動というのは此処に御神縁を頂いとる人達だけがするのじゃないですね。もう思いもかけない人にそういう働きがはじまる。いやそれは勿論網さんとい云う御信者があって、その網さんがおかげを受けられる。鮮やかなおかげに銀行の支店長も驚いておられるわけです。そこへそこの銀行の取引をしておられる二人の方、二人とも砂利採取をしておられる。一人は六十七歳か六十六歳、一人は五十六歳という。此の五十六歳という方の方が年をとって居るようにしておられたけど、病気をしとる。それが六十六才の方夫婦、五十六才の方達夫婦と、二夫婦でお参りして見えました。
若い者の様にはいけん。休み休みしてきたから、丁度八時間掛かった、参って来られる、宮崎からね、ここで御理解を頂いた後で云われるのに、此処の入り口の来たときに異様な感じがした。これは私達も此処にお参りをしてきた事からおかげば頂くばいと言うて入ってきました、と言う此処にはそういう物が在るようです。お手洗いの所に入ってきた途端にですね、もう今まで感じたことのない、これで私どん助かると言うものがある、と言うてそこから此処まで来る間にそれを話して来たというのです。網さんがおかげを受けて居られるから網さんのお導きならあれですけどね。網さんがおかげを受けて居られる銀行の支店長が是非そんな訳なら合楽に参ってみなさい、大した神様らしいですよと言うので、二人、隣同志に砂利の採取をして居られる方らしいです。それがそのどういう事かと云うと、この六十六歳になられる方は大体吉井の方らしいです。そして田川群で大体は育ってそして宮崎にいってある。大体私は吉井の者ですと云われる、江島さんと云う。それがお話を聞いておるとですね、もうとにかくこげん儲かって良いじゃろかと云う位に儲かる。砂利採取、だから家内と二人でねこれから先どげな難儀が起こってくるか分からんと思ったらハラハラしながら毎日過ごしとると、こう云われる。砂利採取というものはそんなに儲かると言う訳なんです。然し色々様々ですね。儲かり過ぎるごと儲かって、だからかえって先が不安で堪らん、とこういうわけです。然ももう六十六歳になられる。確かにそんなものらしいですね。何かこう運が向いて来る、どんどん調子良う行く。が、ふっと寝覚めに、こげん調子良う行き依るが一遍にガタッと行くとじゃないじゃろうかと云った様な思いをするらしいですね。そこに私は信心の有る者とない者の違い、親の有る子とない子の違いをはっきり一つ分からせて頂かねばいけないと思います。そうすると片一方の方はそれとは反対です。同じ砂利の採取を、この方はまだ五十六歳ですけども河野と言うかたです。やっぱり夫婦で参って見えとる。五十六歳ですから十歳若いですけれどもこの方の方がおじいさんという感じ、が去年卒中で倒れられて、言語が不自由で体が自由でないわけです。その為に仕事は思はしゅう出来んでこちらは段々困ったことになって行かれよるから、お先は真っ暗だとそういう二組の夫婦の方がお参りされて、もうともかくまあ長生きしたところでね、まあ百まででしょうから、お互いあと二、三十年のところだから、本当にその二、三十年の所をどうであろうともです本当に神様のお働きというか、それを信じていよいよ有り難い生活に入らなきゃいけませんね、と言うてそんなことを話さして頂いた。丁度そういうお話をして居るときに、福岡から或る教会にお参りをしておられた、まだ若いんですけども、先月の月次祭でしたかね、お参りして見えて倒産された。そこで此処にお参りしとります戎浦さんのお父さんがお導きをして参られた。ところが本当にこういうおかげは倒産前に頂いとったら、という様なおかげが表れだした。或る方が一千万円という、いくらお金の値打ちがないと言うても大金です、を出してから私がひとはだ脱ぐからもう一遍やってみれと言う方が現れたと言うのです。ちょうどその方もある女の方をお導きしてお参りして見えた。六人の方達が丁度此処へ四時の御祈念前に揃われてお話させて頂いてから丁度四時になりましたから、皆四時の御祈念を頂いて、そして四時の御祈念の後の御祈念を頂いて帰られました。それで私は御祈念を終わってから福岡さら参って来た方が丁度このお届け帳の百二十人目に当たりましたから、その一つ前に命が危ないという様なお夢のお知らせを頂いてのお届けがありました。その人が一つ前でそれからその福岡から参って来た人が一番最後、だからこれが反対になっとったらこれが病人かなんかの時ならば此処の時のお届けにする時には必ずお国替えという位な、不思議な働きがお届け帳の上に有ると云うこと、ところが今日はあなたの前にそうであったけどあなたが一番最後の百二十人目にお届けをしたという事は今、一生懸命の修行中だという事、それこそ此処へ参って来るにでもガソリンを買う金がないという位な所を通っとられるですね。そりゃ倒産しとられるところですからけれどもこれを修行としてあなたが受けられたらあなたは必ずおかげをうけられますよ。と言う話を私はその六人の方達にさせて頂いた。修行するということはそう言う安心が生まれるという事を、前の二人の方達は聞かれたんですね。だからその宮崎の銀行の支店長から聞いた話は何かそれこそ千里眼的な何事でん分かんなさるという様な先生と云うようなつもりで見えて、この様な、調子に乗って大変繁昌しとるがこれがいつまでだん続きましょうかと云う事をお尋ねに来たわけだった。片一方の方はそういう半身不随のような方でも神様でおかげ頂けるならば頂きたいと言った様な淡い望みを持って参って来たと云うことであった。そこで福岡から参って来た人と一緒に御理解を頂いて四時の御祈念を頂いて、頂き終わってから私が頂いた一番始めの○○さん今が大変な修行じゃけれども、そこになら再興させて貰う、一千万円出して腰抱きしてやろうと言う人が現れた事も不思議な事だけど、今の修行は実に楽しい修行だからそれを苦労とせずに修行して受けたら、もう此処に来たが最後絶対おかげ頂く人ですよと私が云うた事が本人は勿論ですが前の二人の人が修行する事によって、安心が生まれると云うことが、何かしら分かられたと言う感じでした。それでまた神様は只先のことが分かんなさるという神様だけではない。修行をさせて貰う、修行を教えて貰う、信心させて貰うと言うのが、この神様だと云うような、その感じを受けられた様です。そしてその網さんという方がおかげを受けられたという話を、その銀行関係の事だけだけれども、支店長から聞いて来てある。まあこれは銀行関係でおかげを受けられた網さんの話。網さんという方が初めて此処に入って見えた時にもう思わず知らず貸してしまわれた。貸そうと思った「てんまつ」。来られた同時に電算機ですか、止まとったのが動き出したと云うような不思議な話をされた。合楽の金光様と言えば大変な金光様らしいと言う。その話を聞いてきた。けれどもそのおかげを受けて居られる網さんのおかげと言うのはもうとにかく求めに求めておられる。ここにいくら金があったならば、云うならば何でも良い、そこに食べるものが有るならばと言うのと同じ事です。
網さんがおかげを頂いた、不思議なおかげを頂いておられるとそこんところを網さんはこういう風に云うとられます。
多種多様のおかげを頂いて有り難うございます。有り難くお礼申しあげます。一つの壁、また二つの壁と次々と現れて来る凡夫では想像も出来得ない大きな奇跡が現像して解消して頂きました事を厚く厚く御礼申しあげます。次第の奇跡は親神様の御高徳に依り私共は生かされて生きて有りこの万分の一にも当たりませんがどう申し上げて宜しいでしょうか、文筆に表し得ないおかげを頂き、只々親神様に向かえる心の底に、真の姿勢を正しくするより他にないと存じ上げますと。
まあこれは一節なんですけどそういうおかげを頂いておられる、けどそれはね、丁度云うならばお腹のすいた時にふかし芋を頂いた様なものだとお知らせを頂いた。代用食の様なものだということです。ね、此処にお金がいくら有ったなら、ああ此処に本当に何でも良いから、お粥さんでも良い、お芋さんでも良い、腹一杯食べさせて貰えばよい、同じことでしょう。だからそう言うおかげはね、代用食の様なおかげであって、信心を分からせて頂いて次に私は米という宝を頂きましたから本当にままになるおかげというのは、喜び、安心の生活が出来ると言うこと、その喜び安心の生活が出来る、そういう心の状態には人間の幸せの条件の全てが整うて来る集まって来るの出すよと。だから今のどから手が出る程に欲しいおかげというのは、それを良し、不思議なおかげを頂いてもそれは代用食的なもの、ふかし芋を頂いたようなものであって、本当のおかげは本当のおかげ、米と言う字を分解すると八十八と書いてある。昔からお米を作ると云うことは八十八回も手が掛かると云われたが、その沢山の経験、その精進努力云うならば、そういう修行をさせて頂いて、見事に稲の採り入れをさして貰い、それを米にさして貰いそれに○をかけてままにする、ご飯にする。そして「まま」になるおかげが合楽で云うおかげになる、と言うことなんです。だからそう言う修行と云うことがです、修行する事によって力が受けられる。徳が受けられる。修行する事に依って安心が生まれる。
私が福岡のその方に申しました様にあなたがこれから起きてくる問題を一つ一つをそれを修行と思うたら、もう腹も立てん、苦しくもない、むしろそれが有り難い心で受けられる。これは百二十人目にこれにお届けが有ったという事は、神様はそういう事を暗示して居られる。だから楽しいですね、という話を前の人達が聞いて、なら米の御理解を頂いて、ね、信心の修行が積み重ねられて力が出来、安心が出来、喜びが頂けて、初めて本当のままになる。それは網さんの話を聞いて只びっくりするばかり、それこそそれに関係したその銀行の支店長さんが合楽の示現活動に一役買ってあります様ですけれども、そういうおかげは代用食的なおかげですよ。これからはまあ月一回づつ位お参りになって、そして何かの時にはお電話でも良いから、お伺いをさせて頂いて、お伺いのまにまに、御神意のまにまに動くと云うことは、もうそれだけでも安心なことですよ、自分で右にしよう左にしようとしておるから、サアーこれがどうなるだろうかと言う不安がある。
片一方の方は余り調子が良すぎて、儲かりすぎて、これがいつまで続くのだろうかと言う不安、後ガタッと来るのじゃなかろうかと言う不安、そう云うところでいつごろまで景気が続くじゃろうか、儲かるとが続くじゃろうか、とお伺いに見えたかたなんです。片一方の方は今度は同じ同業の方ですけれども、体がこの様に若いのに、半身不随のような状態になって、もうお先が真っ暗だと、ね、もし私の体が合楽の金光様で治る様なら云うなら奇跡が頂ける様なら、と淡い望みを持って八時間もかけて参って見えた方なんです。
そこでです、信心する者はどのような事が起きて来ても驚いてはならんぞと、驚かんで済むためにもです、私共が日々の生活の中にビクビクしたような生活をしよって何かが起こったときに、もうそれこそ栃めん棒振らんならん。もうそれこそびっくり仰天せんならん事が分かります。常日頃がです、おかげになると確信する行き方、常日頃の修行がです、信心する者は親の有ること無い子との違いが自分の心の中に頂ける。どんな事がよし起こって来ても神様が有るから合楽があるからと云うその安心のおかげが常日頃出来ており、又は鍛えられておらないとあんまりおかげ頂きすぎても不安になると云うた様な結果になる。それとは反対に突発的な事が起こってくると、もう先はどんなになるだろうかと云う様なお先真っ暗な生き方をしなければならない。まあ私共長生きのおかげを頂いてもですまあ二十年か三十年、その二十年か三十年間をです、本当に安心して行けれる、喜んで生きて行かれる、然もその喜びには、その安心にはこういうおかげも頂けるという体験を頂きながらこれからの生涯でなからねばいけませんね、と言うてまあ申しました事です。
そこでです、そういう常日頃、安心して行けれる信心とはどういう信心を、只毎日参り依るから安心と云う事ではない、毎日参りよるからどのような事が起こって来ても驚かんで済むと言う事ではない。そこでどういう信心を私共が目当てにして信心の稽古をさして頂いて居ったらどんな場合でも驚かんで済む様な心が頂けるかと云う事であります。
昨日「やつなみ」を送って来て頂きました。桜井源吾先生所から出ておる、毎月送って頂くんです。その中に全部読んどりませんけど、最後の所だけ木更津教会の先生のお説教が出ており、その最後のところにこういう事が書いてありました。信心の基本的なものは神の気感に適う、それには本当に生かされる、生かされて生きておると言う、生かす神様の働きと生きる私達の働き、それが一つに合致したとき、大きな働きがそこから表れて、おかげが受けたいと云う形が出来て何事も心が肝心です。天地の心を私達の心として。申し上げておれば必ずそこに神も助かり氏子も立ちゆくと言う、共に繁昌して行く道が開けて来るんだと思います。神も助かり氏子も立ちゆく、神の心を心とし天地の心を心としてとあります。
そこでそんなら昨日研修の時申しましたのですけれどもね、大体云うたらこれからお説教頂くことが、本当の事だと、永くボーっとお話してありますが最後に話してある云うなら天地の心を心として行くことが、そんならどういう事かと云うことを説く人が無いという事です。成る程天地の心を心とすれば、神も助かり氏子も立ち行く事に必ずなるからです。そんなら天地の心を心とする信心とはどういう信心かと云うと、だからお説教は此処から始まるという事になるのです。そこを合楽では皆さんに聞いて天地の心を心とする事の天地日月の心になること肝要と云うこと、それと天の心とは、地の心とは日月の心とはと言う信心を、皆さんに聞いて頂いておる、だから如何に天地日月の心になることの信心がなさらなければ、神が助かり氏子も立ち行く事にならなければ、同時にです、どのような事が起きてきても驚かんで済む信心と言うのは、神の心を心とする信心しか生まれて来ないと云うことであります。そこでなら最近祈願詞を唱えさして頂いている間に、天地書附を基軸としてと言う訳です。だからあの天地書附を読み上げてそれを信心の真として、和賀心で有ればと云うのですけれども、いつも天地書附を基軸としてと言うただけでは分からないでしょう。読み上げただけでは、それだけでは天地日月が自分のものになるわけはないでしょう。だから天地書附を基軸とする前にです、天地日月の心になることを信心の基軸として参りますとです、自ずと天地書附の和ぎ、賀ぶ心も生まれる。もう一つその前に基軸にしなければならないことを、合楽で説いて居ることと一致すると言えます。だからどうでも天地日月の心になること肝要というそう言う信心をです、然も容易う、楽しうです、此処では説いてあるのです。天の心、もう限りなく美しくなりましょう。地の心いよいよ一切の事を黙って受けるという受けて受けて受けぬく心を頂いて、自分の心が大きくなる、自分の心の豊かになって行く事を楽しみの信心、もうこれが楽しいのです。日月の心、正確無比、云うならば実意丁寧神信心間違いのない、規律の立った信心を身に付けて行くと言う事に精進する以外ない。そういう信心から天地書附の御精神が分かり、昨日も実意丁寧、愛の心もて人に伝え行くと言う事でも、その愛の心というのが、狭い愛の心ではつまらない。あの人は気の毒だから話そうとか、これを上げようとか、と言うた様な愛ではつまらない。何処までもその愛というのは天地金乃神の心、云うならば神愛をもって伝えて行かねばならないと云うこと、その神愛を分かり頂かせて頂くためには、天地日月の心、いわゆる神の心を心としてと言う精進をしなければそこに目指しを置かなければ頂けないと言う事ね、宮崎から銀行の支店長さんの紹介でお参りしてきたという二人の方が一人は儲かり過ぎて先は不安である。いつまで続くだろうかと参ってきた。一人は同じ同業だけれども、体が半身不随になって、お先が真っ暗だ、もし助けて貰えるものならば、そういう神様なら一遍参ってみようと言うて、二人相談し合うて、網さん所に電話を掛けて、道を聞いて参って来たという事、網さんのお導きじゃない、支店長のいうなら示現に依って不思議な神様の働きがそんな所から始まってきた。そして初めて信心に修行がいると云う事を福岡から参って来た人の御理解を聞いてから信心には参ったり拝んだりだけじゃいけんバイ。米という字の様に、米という字を頂くだけで八十八回も手がいるという。
そのお米を頂いて熱を掛けて初めて「まま」になる、それが殆どが奇跡的なおかげを頂く。それを喉から手の出るような思いで頂きたいと云うのは、それはふかし芋を頂く様な代用食的な「まま」になるのであって、本当の人間がままになる様なおかげは心が助かるならどのような事が起こって来ても驚いてはならんと仰る、驚かんで済むほどしの心が出来たときその心に神様が感応ましまして、人間幸せの条件の全てが足ろうて来る。ならそう言う条件が足ろうてくる信心とは、私共の信心の要とするところが天地書附で有りますけれど天地書附のもう一つ向こうに、天地日月の心になること肝要と言う具体的な、云うなら修行を教祖様は教えて居られると云う、天地日月の心になることに私共が精進させて頂けば、天地書附の御精神が必ず分かる。そして本当の意味に於いての神愛もわかる。その神愛をもって語るところにならなければ合楽示現と云うか、人が助かる、と言う事につながらない。また神も助かると言うことに繋がらない。それに信心しておってもです、先はどんなになるだろうかと言うような、不安な気持ち、ビクビクした気持ちで何か起こって来た時にそれこそ驚かにゃならんと云うことになる。信心する者はこれから先どのような事が起こってきても驚いてはならんと仰る。その信心を頂く為には常日頃のビクビクした信心ではなくて、と言うて安心のおかげは始めから頂ける筈は無いけれども本気で精進させて頂くと不思議と心が安らぎます。不思議とおかげが頂けるという確信が心の中にもりもりと湧いてきます。そう言う信心が常日頃大事だと云うことを聞いて頂きましたですね。
        
                                                                   どうぞ